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●清
明王朝を滅ぼし新皇帝になった李自成は清に寝返った呉三桂により大敗。
清の3代目皇帝・順治帝の摂政ドルゴンにより、北京入城後の清は李自成の大順国、
張献中軍団、明の残党を破り、李自成は敗走中に農民に殺され清は中国全土を統一。
漢人は辮髪べんぱつを強要される。拒否すれば首を落とされた。
清朝が国民国家化に踏み切ると、初めて漢人にも満州服が許され女性たちは大喜びで
チャイナ・ドレスを着るようになった。清朝時代に中国人の意識は満州化された。
満洲文字や満州語が分かる漢人はほとんどおらず、科挙試験にその年に受かった三官僚
だけが満州語を学ぶ権利があった。
各地に派遣した行政長官や駐在大臣には漢人に理解できないように満州語で報告書を送った。
しかし、現在の中華人民共和国みたいに現地の言語や文字を奪うようなことは、しなかった。
清では宦官の人数を明の十分の一に減らし、宦官が政治に関与すれば死刑をもって禁じられた。
鄭成功ていせいこう・・・台湾をオランダが統治すると福建省農民に開墾させる。
これから中国人が台湾に住み着くようになる。
そこへ現れたのが鄭成功である。オランダ人追い出し清に抵抗、父は倭寇の流れをくむ
漢人の海賊・鄭芝竜、母は日本の平戸の武士の娘。明に就いた鄭成功が没すると鄭氏は清に
降伏。
ヌルハチ・・
明は秀吉による文禄・慶長の役の対応に忙殺され、女真族の抑えが手薄になっていた。
八旗制をしき、女真族を統一したヌルハチは明征服を達成するため、八旗軍を率いて南下
するが万里の長城の山海関の前方の寧遠城を包囲した所で明の名将・袁 崇煥(えん すうかん)
により撃退。
ヌルハチはその年の8月に亡くなるが明から自立を果たし、清王朝の礎を築く。
ホンタイジ・・1636年瀋陽に都を置き、後金を清へ改名して女真による満洲八旗だけで
なく、満州化した漢民族・モンゴル人・ロシア人・朝鮮人なども八旗に組み込まれ、
蒙古八旗・漢軍八旗と称され、満州人として扱われ、(合計24旗)
満州人と八旗に編入された人々は旗人と呼ばれた。八旗のうち三旗は清朝皇帝の私的な
領民だったが、他の5旗はそれぞれ皇族の領主に属し、皇帝でさえ内政には口出しできな
かった。
明の攻略を目指すも病死。ホンタイジの9男であるフリン(順治帝)が後を継ぐ。
1644年入関わずか6歳の為、叔父のドルゴンが実権を握る。そして中国全土を制圧。
康熙帝・雍正帝・乾隆帝と名君が三代続き黄金時代が到来。
康熙帝が8歳の時、満洲人オボーイが権力を奮うが、16歳になった康熙帝らにより、
専横が過ぎるので投獄されてしまう。
オーボーイらとつながり利権を貪っていた漢人の有力者が独立しようと反乱を起こす。
自分たちの地位も危ういと思ったのだ。↓
三藩の乱・・雲南の呉三桂、広東の尚之信、福建の耿精中(こう せいちゅう)の三藩らが
反乱を起こしたが8年かかって康熙帝が三藩の乱を鎮圧。台湾の鄭成功の孫も降伏。
以後、康熙帝、雍正帝、乾隆帝の三代による清の全盛期がもたらされる。
これにより国内人口が1世紀足らずで2倍に増え3億人を超えると
耕地不足に政府の目の届かぬ所へ民が移動していく。新興宗教が爆発的に広まる。
ネルチンスク条約・・ロシア人はモンゴル帝国のジョチ家の白いオルドつまり黄金のオルド
(キプチャク・ハーン国)の領民だった人々である。ロシア人という名前は9世紀に
スウェーデンからバルト海を渡ってきたルーシーから出たもの。
康熙帝はロシア皇帝のピョートル1世との間でネルチンスク条約の締結にこぎつけた。
これによりヤブロノビ山脈から東は清、西はロシアの勢力圏と定められ、ロシア人はアムール川
本流の渓谷から閉め出された。これによりハッキリした国境を持つ領土国家の観念が
四方を国境に囲まれる、中国の王朝に芽生えた。
康熙帝最後の遠征、ジューンガル討伐・・ガルダンの后は戦死、清に大敗する。
逃亡中にガルダンは病死。最後の遊牧帝国のジューンガル帝国は継承争いで弱体化、
1755年ついに乾隆帝に攻められ滅びる。そして最終的にロシアと清に分割。
新疆とチベットが清の領土に。
乾隆帝の時代に全モンゴル系種族を支配下に治める。
雍正帝の時代に後継者争いを無くすため、後継者の名を書いた札を箱に納め、宮中の
正大光明と書いた額の後ろに隠し置く制度を考案。皇帝が後継者指名せずに崩御した場合
大臣立会いのもと箱を開き亡き皇帝の意思に従って新皇帝を立てる。
そして次の乾隆帝がその制度によって選ばれた最初の皇帝である。太子見密建の制度
乾隆帝は清朝最大の版図を現出。十全武功(10回の外征の成功)を自らの最たる功績
として挙げる。
(習近平国家主席は康熙帝・雍正帝・乾隆帝の研究をしているようだ)
白蓮教徒の乱/天理教(八卦教ともいう)・・
嘉慶帝かけいていの時代、建国から1世紀余り、平和に慣れた清の正規軍は弱体化し
反乱軍を抑えることが出来ない。
白蓮教の信者たちは、たとえ戦いで命を落としても来世は幸福になれると信じていたため
恐れることなく戦ってくる。結局、郷勇や団練と呼ばれる義勇兵や自衛武装集団
が戦い下火になり、1804年に鎮圧。清は国力を落とす。
アヘン戦争・道光帝の時代・・国力を落とした中国に新たな大敵イギリスが現れた。
イギリスはそれまで中国からお茶を買い銀を支払っていた。
イギリスから大量の銀が流出するのを恐れたイギリスは清からお茶を輸入し
インドへ綿製品を輸出、インドから清にアヘンを輸出する三角貿易を行う。
中毒患者が増えイギリスへの茶の輸出量を上回るようになる。
清は深刻な財政難になり、道光帝は厳しいアヘンの取り締まりを主張していた林則徐を
欽差大臣(特命全権大使)に任命、取り締まりを強化。
アヘン貿易を停止するように強く求めた。が、老齢の林則徐は任地に赴く途中で死亡。
反発したイギリスはアヘン戦争を起こす。
完敗した清は、南京条約1842と虎門塞追加条約を締結。香港割譲、
上海・寧波・福州・厦門・広州の5港開港と領事の駐在、開港での外国人の借地権の承認、
関税自主権の喪失、領事裁判権、賠償金の支払いといった不利な条約を受け入れる。
弱体化した清はイギリスやフランスといった列強の食い物にされる。
さらに、再びに戦争を仕掛けてきた英仏連合軍に敗れ、天津条約と北京条約を締結。
外国人の内地への旅行権、土地の租借権、アヘン貿易の公認、くりゅう半島の
イギリスへの割譲、多額の賠償金などの約束をさせられる。
太平天国の乱1851年・・
咸豊帝の時代、客家出身の洪秀全に率いられた上帝会
の信者が平等な国を作ろうと挙兵。10年以上戦い続けた太平天国は建国から11年後
曽国藩ソウコクハンや李鴻章リコウショウの活躍や1864年に欧米列強などにより滅亡
させられる。
アロー号事件・・・(太平天国の乱の最中)
咸豊6年1856年、広東(カントン)で清(しん)国船アロー(Arrow)号の掲げていたイギリス国旗を
清国官憲が引き下ろした事件をきっかけに、貿易拡大を望むイギリスがフランスと連合
して清国と始めた戦争。第二次アヘン戦争。
咸豊帝は熱河の避暑山荘へ西太后らと共に「巻き狩り」といって」逃げる。
和平交渉を弟の恭親王と桂良に押し付ける。そして自分は山荘で芝居を見て時間をつぶす。
最終的に清国は屈服し、1858年の天津条約、1860年の北京条約によって終結。
咸豊帝は山荘で芝居三昧にふけり死亡。同時に6歳の息子が践祚した。同治帝である。
辛酉政変(祺祥政変)しんゆう又はきしょうせいへん
西太后らが「顧命大臣」載垣、端華、粛順らを処刑、
その後、西太后らによる垂簾聴政(すいれんちょうせい)が行われる。
安徳海の処刑・・・西太后お気に入りの安徳海は東太后と同治帝と恭親王の意により
丁宝禎により処刑される。西太后も東太后には勝てなかった。
同治4年の政変・・・恭親王を失脚させた西太后の真の睡簾聴政が始まる。
洋務運動・・・・近代化
アロー戦争によって,西洋近代兵器の必要性を感じた李鴻章(りこうしょう),
曾国藩,左宗棠(さそうとう)らは,官営軍需工場,外国語学校等を設立。
曾国藩が作った軍閥は、李鴻章、袁世凱と受け継がれ、中華民国以降も生き残った。
光緒帝・・1864年、太平天国の乱が終息し、その際の清王朝の10代皇帝だったのが
西太后の息子の同治帝である。その父である咸豊帝が亡くなった時、正妻の東太后には子供が
なかった。そこで二人の両太后が摂政として並び立った。
1873年18歳になった同治帝は紫禁城で親政の大典を挙行。
東西両太后は撤簾(てつれん)、すなわち睡蓮聴政を止めたが・・・
1875年同治帝が19歳で痘瘡により亡くなり、その皇后は懐妊していたが自殺。
そこで西太后が皇帝崩御当日に宮廷会議を召集し、西太后の妹の子の光緒帝が5歳で即位。
二人の太后が再び摂政に睡蓮聴政にあたる。
その6年後、東太后は光緒7年(1881年)3月9日に45歳で突然死去、西太后はまだ政治の
実権を独占できず、古狸を更迭する機会を窺う。最終的に甲申易枢(甲申朝局の変)で
古狸を更迭し西太后に権力が集中。
1884年清仏戦争で清は実際に勝ってるのに講和を急ぐため1885年に敗戦を認める。
この戦争を利用して邪魔者を排除した西太后は清朝の実験を握る。
東学党の乱
朝鮮で1894年(甲午の年)東学の信徒が主導した農民戦争。地方官の悪政に反対した全羅道の
農民が蜂起したのに始まる。朝鮮王朝政府は鎮圧のため清しんに出兵を求め、清に対抗して
日本も出兵、日清戦争の契機となった。
(6月朝鮮政府は鎮圧のために清国と,次いで日本に援兵を依頼した。)
日清戦争1894から1895・・
日本の国民軍に対して清は李鴻章の北洋艦隊に任せきりで内陸や南の軍艦は関知しなかった
為に日本に大敗。
敗れた清は下関条約1895(馬関条約、李鴻章が日本と交渉)で朝鮮に対する宗主権を放棄。
台湾・遼東半島・澎湖諸島の割譲を認め、2億両の賠償金を課せられる。
ところがロシア・ドイツ・フランスの三国干渉により、遼東半島は返還され
ロシアに取られてしまう。これにより、清では反日愛国運動が広がる。
光緒帝による百日維新と計画(栄禄を殺し、西太后を頤和園に幽閉しようと計画)
成長した光緒帝は新政改革を始めるが、袁世凱が「改革派が西太后幽閉計画を立てている」と
密告。西太后はクーデターを仕掛け改革派を処刑、光緒帝も幽閉。「戊戌の政変」1898
帝党・維新派は壊滅、后党・保守派の完勝に終わる。
義和団事件・・19世紀後半、清王朝の末期には国内に進出してきたヨーロッパに不満を持つ
人々が多数いた。綿や運送業の仕事を失った人々が外国人に恨みを抱くようになる。
清朝の保守派も統制派と排外派に分かれる。
1899年弥勒菩薩を信仰する義和団がキリスト教会を破壊。
1900年には20万人規模に膨れ上がり、「外国人は中国から撤退せよ」と要求。
排外派の西太后も義和団を利用して支持。
義和団と清軍は協力して家宅捜査、外人を匿ってる者や外国の物品を持ってる者を
逮捕。これを利用して政敵を潰す。60年余り後の文革のチャオジア抄家を先取り。
東光民港の一画に籠城した柴五郎と外国人は清軍と義和団に包囲されながらも2か月頑張る。
包囲していた清軍は義和団に協力するふりをして各国公使と家族が避難する
イギリス公使館は砲撃対象からはずす。指揮を執っていた栄禄は統制派であった。
連合軍が紫禁城に迫る。西太后は自分が戦犯になるのを恐れ、光緒帝を人質に山西省の太原に
逃げる。後始末のため西太后は出発前に光緒帝の寵愛する珍妃を宦官の崔玉貴に命じて
井戸に投げ込む。珍妃は康熙帝に「北京を離れるべきではない」と正論を吐いたためか?
いや、珍妃が第二の西太后になるのを恐れたからだろう?
太原からさらに西の西安に到着。西太后は義和団を一転して賊軍に認定、清軍には
連合軍と協力して団民を殺すように命じる。エキキョウと李鴻章に外交の全権を与え
北京で和平交渉にあたらせた。
西太后は西安で贅沢な生活や芝居を楽しんだ。この逃避行は庚子西狩(こうしせいしゅ)
と呼ばれる。
やがて、イギリスや日本を含む8ヵ国連合により鎮圧。この時の主導権は日本が握っていた。
この日本の活躍により、のちの日英同盟が約束されたと言ってもよい。
義和団に加担した清も多額の賠償金を要求され、さらなる不平等条約を押し付けられ
満州はロシアに支配される。賠償金は後の中華民国に引き継がれ、1940年に
完済された。李鴻章はこの辛丑条約(しんゆう)締結の2か月後79歳で没する。
西太后は旅行をしながら北京に戻る。
西太后は3度目の摂政として権力を握る。一転して西洋かぶれになる。
そして外国人との社交を楽しんだ。70歳の太寿は日露戦争の為に祝いを自粛。
崇慶太后になる事をついに諦める。日露戦争が起きた光緒30年1904年科挙が永遠に廃止。
1905年科挙試験の廃止、外国留学帰りの人々を登用して官吏にする。
もっとも多い留学先は日本であった。日本製の漢語が中国人の言語に流れ込んだ。
【最後】
74歳の老齢になり、光緒帝にも後継ぎがないため
光緒帝の弟・醇親王載澧(じゅんしんおうさいほう)の子である溥儀を皇太子として指名。
光緒帝が亡くなった翌日に1908年11月15日に西太后も亡くなる。
溥儀が幼いため載豊が摂政になり光緒帝を裏切った袁世凱を政界から追放。
が、河北省の武昌で清王朝の若い士官たちが革命の為の反乱を起こす。(武昌蜂起)
それを鎮圧させるために載澧は袁世凱を総理大臣に任命して至急組閣するように
求めた。そして革命軍と戦った袁世凱は清朝を裏切り革命軍を自分の配下に置き清朝を
潰すことを企む。北京の載澧(溥儀の父)は脅され清皇帝は退位し清王朝は潰れる。
袁世凱は中華民国の大統領になる。それから4年後、かれは洪憲皇帝として即位し
袁家王朝の樹立を宣言。
しかし他の革命軍の軍閥が反発、袁世凱は憤死。天下を取りたい軍閥の群雄割拠
の時代になる。
■ここがポイント・・・
清王朝が滅んだ原因
近代化により西洋列強がアジアをターゲットにして植民地政策を推し進めてきた。
アジア諸国はなす術がなかった。
清王朝の皇帝が天下=世界の支配者であるという神話を粉々に打ち砕いてしまった。
そして明治維新の成功で近代新興国として台頭してきたのが日本である。
同じアジアにある日本は清の中華秩序に対する脅威となる。明治になり、早々と
琉球処分を断行し、日本の一つの県にしてしまった。琉球はもはや清王朝の
朝貢国ではなくなり、中華秩序の一角が崩れた。そして日清戦争に敗れ、台湾や朝鮮半島を
失う。
清王朝にとって致命的な打撃となり、華夷秩序の崩壊となる。
それから17年後、軍の反乱により滅びる。
孫文の目指した革命は、近代国家の建設並びに満州族を駆逐して中華を回復させるための
民族革命でもあった。日本の東京で同盟会が設立されたことからわかるように
当時の日本が中国革命の最重要拠点だったのだ。
留学した中国青年たちが同盟会に入り帰国して清王朝の内部に入り込み革命要員となって
いく。
そして武昌蜂起から辛亥革命へ
●後金→清 皇帝 一覧 女真、女直→満洲族
モンゴル人との違いは狩猟民族であるという事(遊牧民族ではない)
1. 太祖高皇帝(天命帝、愛新覚羅努爾哈赤、在位1616年 - 1626年)ヌルハチ
2. 太宗文皇帝(崇徳帝、天聡帝、愛新覚羅皇太極、在位1636年 - 1643年)ホンタイジ
成宗義皇帝(ドルゴン、愛新覚羅多爾袞、
1650年順治帝によって成宗義帝と追号された。)
1. 世祖章皇帝(順治帝、愛新覚羅福臨、在位1643年 - 1661年)フリン
2. 聖祖仁皇帝(康熙帝、愛新覚羅玄燁 、在位1661年 - 1722年)げんよう
3. 世宗憲皇帝(雍正帝、愛新覚羅胤禛、在位1722年 - 1735年)
4. 高宗純皇帝(乾隆帝、愛新覚羅弘暦、在位1735年 - 1795年)
5. 仁宗睿皇帝(嘉慶帝、愛新覚羅顒琰、在位1796年 - 1820年)
6. 宣宗成皇帝(道光帝、愛新覚羅旻寧、在位1820年 - 1850年)
7. 文宗顕皇帝(咸豊帝、愛新覚羅奕詝、在位1850年 - 1861年)側室 西太后
8. 穆宗毅皇帝(同治帝、愛新覚羅載淳、在位1861年 - 1875年)母は西太后
9. 徳宗景皇帝(光緒帝、愛新覚羅載湉、在位1875年 - 1908年)
10. 恭宗愍皇帝(末帝、廃帝、宣統帝、愛新覚羅溥儀、在位1908年 - 1912年)
アイシンは満州語で「金」
ギョロは「姓」
アイシンギョロは「金と言う姓」

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