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●随
鮮卑族で西魏の宇文覚(うぶんかく)が天下統一をすると思われたが、
同じ鮮卑族の楊堅がその座を奪い宇文覚を始末する。
文帝・楊堅と息子の煬帝・楊広の二面作戦で陳王朝を滅ぼし隋によって中国が統一される。
隋・唐の中国人は2世紀末にほとんど絶滅した秦・漢時代の中国人の子孫ではない。
北方から移住した狩猟・遊牧民の子孫にとって代わっている。だから現代の中国人も、
非中国人の子孫である。
【隋の皇帝一覧 鮮卑俗(北荻・・・北の狩猟民)】
1. 高祖文帝(楊堅、在位581年 - 604年)
2. 世祖煬帝(ようだい)(楊広、在位604年 - 618年)
3. 恭帝侑(楊侑、在位617年 - 618年)きょうていゆう
4. 恭帝侗(楊侗、在位618年 - 619年)きょうていとう

科挙制度が始まる。家柄でなく能力によって選抜する、これは文帝が採用し煬帝が確立。
中国で598年~1905年、即ち隋から清の時代まで、
約1300年間にわたって行われた官僚登用試験である。
煬帝が華北と江南を連結する大運河を建設。現在でもつかわれているらしい。
文帝の高句麗遠征は失敗に終わる。
煬帝の時、高句麗攻略に3回も失敗すると各地で反乱がおこる。長安を捨て揚州に逃れた
ことで、さらに反乱が広がる。
(2回目高句麗遠征の失敗は朝鮮史上では薩水大捷(たいしょう)と言う・・薩水(清川江))
【最後】
煬帝の側近・宇文化及(うぶんかきゅう)に、身柄拘束され市中引き回しの後、煬帝は絞首刑、
江南の文化の香り高い町から離れたくない煬帝に対し家族が北方にいる家臣は北へ
帰りたかったのだ。その後、同じ鮮卑族で煬帝の家臣の李淵・李世民の父子が長安を
無血占領する。618年李淵により唐が誕生。
高句麗遠征には隋も唐も何度も失敗している。北京を超え東へ向かう道は、非常に悪く通行が
大変。鴨緑江まで行くけれど、それから先は冬は凍る。
したがって支那の文明は朝鮮経由ではなく、海を経由して日本に来たのではないか?
逆に日本から唐辛子が朝鮮に入っている。
隋時代の高句麗がやっかいで強力だったからであろう。
■ここがポイント・・・
中国の皇帝は、中国全土を支配しただけでは天子として認められない。
周辺の化外の地を服従させなければ、天命を託された本物の天子として
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